この門をくぐると左に釈迦堂がある。この釈迦堂は実相寺が建てられた1600年代以降のもので唐糸御前当時の超古い釈迦堂と釈迦像は、その(今の)釈迦堂の中に納められているという。
実相寺さんでは冬の今でもどちらも釈迦堂の扉に鍵が掛かっていないのでいつでも開けて釈迦如来像をご覧になってくださいとのこと。


ふじさきの人達が何のために持ち去ったのでしょうか?矢立峠とは大館市から碇ヶ関に向かう長く続く阪です。
初七日法要に北条時頼が釈迦堂を立て唐糸御前のため、釈迦像を作り、ねんごろにに弔ったという。
実相寺さんに電話で聞いたところ檀家さんの配布のため、作った釈迦像のポスター写真があったのでそれを後ほど送付してくれるとのことでした。すなわち「ふじさき」の人達が持ち去ったという釈迦像のことだと思います。

「大館市どこでも博物館実相寺の唐糸・釈迦如来像」でグーグル検索すると大館市実相寺  唐糸御前・初七日法要のことが書かれてあります。
大館市釈迦内地区の地名はこの唐糸御前を祀った釈迦堂に由来しているとのことです。それにしても唐糸御前伝説の影響力が凄い。
藤崎町に、唐糸御前の資料が少ないのに大館市実相寺には資料もある。すなわち俄然、真実味が帯びてくる。

北条時頼公には全国行脚したはっきりした記録はない。しかし、吾妻鏡に時頼公の空白のの半年超の期間があるため、この間に東北を旅したと推測されております。執権を退いたものの、法光寺を建立したり、釈迦堂を立てたり、お金がふんだんに使われている様子。それは、執権を退いても実質的な6代執権後見役の立場なので財源を得られる立場であったと思料される。
それに似ているのが水戸黄門の諸国行脚とされるがその論理は定かではない。
それにしてこの後、北条時頼公はどこへ向かったのでしょうか?
秋田市に向かったみたいです。ここにも光明寺唐糸御前伝説「釈迦堂」があります。土崎地区には有力な大名、秋田安藤氏の城があったところです。鎌倉幕府の直轄地、藤崎安藤氏の直系の子孫と言われています。