下関から佐賀へ

 佐賀藩主鍋島直茂は35万7千石と言われる。
佐賀藩城主は鍋島直茂。鍋島藩とも呼ぶ。

 もともと城主は龍造寺家で秀吉から所領安堵を受けていた。

 しかし龍造寺氏が島津藩との闘いで亡くなるとその子龍造寺高房が小さかったため家臣の鍋島氏がその後見役になった。竜造寺軍を引き連れて朝鮮に出兵したため、秀吉から自分が肥後の所領安堵を受ける。その子龍造寺高房はやがて成人し、江戸の徳川秀忠に仕えた。石高を持たない名ばかりの国主を嘆き江戸で鍋島家中の妻を殺害し自害。地元佐賀のお寺に。城下の家臣、町民は、その死を悼んだという。という。もともと鍋島家では江戸の竜造寺孝房に自発的に8000石を送ったという。

そして時の将軍、徳川秀忠が竜造寺孝房に「佐賀藩の城主は本当に竜造寺氏でなくて鍋島氏でよいのか」と問いただしたところ「鍋島氏でよい」とハッキリ答えたという。

龍造寺孝房が佐賀藩屋敷に白装束で現れたり、孝房が飼っていた猫が女装して化けて出たりという噂が広まり鍋島藩の化け猫騒動として一躍有名になった。それは佐賀城下はもとより江戸城下でも歌舞伎のお芝居でも演じられ前後はともかく忠臣蔵なみに有名になったという。鍋島の化け猫騒動は歌舞伎界、講談で人気となる。
藩主鍋島直茂は不治の病で苦しんで亡くなったという。

 ※化け猫騒動は城で実際にあったお話ではない?佐賀城下での判官びいきの町民が人気の龍造寺家を偲んで「化け猫騒動で鍋島氏を懲らしめてやれ」と口々に噂してにいるうちに地元の世論となり、噂が噂を呼び「鍋島藩の化け猫騒動」として江戸の歌舞伎界でとりあげられ大人気になってしまった。歌舞伎界の内容が逆に城でそういう事実があったかもしれないと、世の人が思い込んだのかもしれない。実際、鍋島藩が歌舞伎界に抗議したそうですが無視され連日大入り満員御礼だったとのこと。
事の発端は、城主鍋島氏が龍造寺家直系の家臣を呼び出し囲碁を打っているうちに「殿は待つことは苦手の様子ですが城を取るのは得意のようですね」と言ったため怒りに触れその場で手討ちにされたという。(口は災いの元)それからというもの飼っていた猫が夜な夜な女性に化けて出たという。 

せめて化け猫の出たここの超大広間にて1時間でも昼寝がしたかった。(ジョーク?)

佐賀藩は藩政改革にを進め石高も実質石高は70万石もあったという。

現在は、佐賀県立佐賀城本丸歴史館。

幕末において最も産業革命が進んだのは佐賀藩で、島津藩主、島津斉彬も感心するほど。
アームストロング砲

初めてのムツゴロウ。なんかひょうきんでかわいい生き物。

ムツゴロウは。唐揚げ等でとても美味しいらしく柳川でもバケツに生きたまま売っておりました。

ムツゴロウさん。また逢う日まで。