藤崎町に伝わる、唐糸御前の伝説。鎌倉時代、執権・北条時頼(ちなみに北条5代目執権を退いた後を西明寺入道という) の愛妾だった唐糸御前は、諸国行脚で立ち寄った北条時頼公に、やつれはてた姿を見られることを嘆き、自殺を図った。その場所が唐糸御前公園近くとされる。当時、大きな湖沼地で入水自殺といわれている。その沼は今は、ないという。

北条時頼の7人の女性の身の周り世話人のうち、愛妾だった唐糸御前はことのほか美しく5代執権、北条時頼に愛され、他の愛妾、正室の羨望のまなざしと策略(忍男をこしらえ邪淫にふけったという言いがかり)に合い、いとまをとらせられ、小舟に乗せられ付け人を伴って流され、十三湊に漂着し藤崎で過ごしていた。その付け人は平川市尾上町、盛美園初代清藤氏と言われているそうです。
栄華を極めた鎌倉から小船で本州北の十三港へ流され捨てられた身 ロマン伝説に聞こえるがあまりにも寂しくて悲しい。
唐糸御前は鎌倉から小船に乗せられて十三港へ。藤崎の地にたどり着く。親戚,縁者はいなかったらしく一説には修験者宅の「離れ」に住んでいたとか。
藤崎の唐糸御前をまつる寺はやがて護国寺になり、後に「唐糸山万蔵寺」と改められ、現在弘前市の禅林街に移っているという。万蔵寺さんには、唐糸御前が亡くなった時、身に着けていたとされるお守りが祀られているという。そのお守りは一寸三分で普段は高い所に祀っているので、訪ねる時、下げていただけるとのことでした。
弘前城公園の桜も唐糸御前公園の桜も綺麗。唐糸御前(からいとごぜん)伝説は世にあまり知られていない。一度は行ってみたい名所です。
弘前城公園の桜を見に行った後で藤崎町の唐糸午前公園の花見に行くのも良いかも?弘前から来ると国道7号線の藤崎城址、大沢板金工業所さんの手前を左折して板柳方面に数キロ(12分ほど)行くと右側角に唐糸御前史跡公園の看板が見えてくるのでその十文字を藤崎方面に右折して約百メートル行くと右側に唐糸御前史跡公園の入り口が見えてきます。(冬季閉鎖、雪の高さの為に中も見えにくい)

今から約700余年前、鎌倉執権・北条時頼公がこの地方を訪れた際、夢想軒(むそうけん)の庵主であった玉峰捐城和尚(ぎょくほうえんじょうおしょう)に一晩の宿と心からのおもてなしを受けたお礼に開基したと伝わる名久井岳の名刹です。曹洞宗奥羽三大本山の一つで、開基は北条時頼、開山は玉峰捐城和尚との記録が残されています。
 中世段階では南部氏と親交をもち、戦国期には東三郎義政の菩提所として寺領150石を安堵されたといわれます。江戸時代には八戸藩領曹洞宗25か寺を統轄する総録として法光寺が信仰の拠点となりました。

 
「満れば欠くる世の憤ひ、時頼の出国を幸いに妾奸者の計りごとにて忍男をこしらえ、邪淫の難をいひかかり唐糸御前空船に入り、鎌倉の海に追放し、如何な前世の因果ぞと涙流さぬ人ぞなし。
西明寺公は夢にも知れず奥州津軽へ御下り」古書一部抜粋

通りかかった時頼公は、村人から唐糸御前のことを聞き、ねんごろに屍と菩提を弔い、鎌倉への帰路七日ごとに寺を建てたという。

私的に思うことは青森県を時計周りを反対方向に回ったため、法光寺に唐糸御前伝説はないものと思料する。

唐糸御前の歴史的文献資料は、藤崎町には少ない。 北条時頼の愛妾だったということだけで出自さえわからず伝説の域を出ていない?

※ただし北条時頼公が供養に三十七日法要で立ち寄った秋田県西明寺地区に行ったところ、古書が残っているとのことで

それによると、ここに北条時頼公の思いの者、唐糸御前のこと人体万人を超え、内心は菩薩に等しく姿は丹下の唇、梨花の粧ひ、小野小町にも劣らぬ美人なりとある。

当時、執権北条時頼公のことを西明寺入道、西明寺時頼と呼んだ。そして執権北条時頼公には正室、毛利季光の娘継室、北条重時(叔父)の娘・葛西殿 側室に讃岐局、辻殿の2名がいた。唐糸御前が側室から消されたのか北条時頼の7人の女性の身の周り世話人のうちの一人なのか、鎌倉側の記録にはない。
第8代執権、北条時宗の父。
※藤崎城は鎌倉幕府直轄の地。盛岡の前9年の役で戦死した頭領・安倍貞任の子高星丸が築いたのが藤崎城であり、鎌倉幕府から蝦夷官僚に任ぜられていた。

※以下余談です
(乃木坂46阪口珠美さんは北条時頼公の直系の子孫とのこと。)