家臣のトップに登りつめ、最大の権限と人事を行使できるようになった時、自由に王をあやつり、野望を悟られまいと、その巧妙な偽装に、誰もその真意を見出す者はいなかったということです。
 また、金丸に認められないと、出世もできないところから金丸派(金丸にも忠誠を誓う者)が異常に増えてゆく。
 話はもどるが、金丸が各地を転々とした後、中山王 尚巴志の五男で越来間切の土地を与えられていた越来王子と会う。(越来は、浦添市と沖縄市の中間地点で国王になれない第一尚氏中山王の一族が住んでいた。)越来王子は、金丸の才能才覚を見出して兄の尚思達王に王府官僚として推薦した。金丸にバックアップした琉球王の兄弟の越来王子(後の尚泰王)が、支援したところからメキメキ、頭角を表わしてスピード出世をしていく。

 ここで、明治時代まで続く410年、第二尚氏(王府)の始祖となるきっかけができた。すなわち第一尚氏王朝の国王以上の影響力を行使できる立場にあったという。
いわゆる陰謀による下剋上の近道にほかならない

逆に、金丸と尚泰久王との出会いがなければ、正統派の第一尚氏王朝は、最後まで続いていたかもしれない。

 話は変わるが当時、首里城をめぐっては有力な安司、中城城主、(元座喜味城主)護佐丸と勝連城がいた。護佐丸と阿摩和利は金丸にとっても脅威で恐ろしい存在。「護佐丸に謀反ありとして落城させましょう」と主、阿摩和利大城賢雄が阿摩和利に告げ口。阿摩和利が首里城に行き尚泰久王に進言。信じた首里王国軍と阿摩和利軍が中城城主、護佐丸を包囲した。護佐丸は謀反なきとして自害して果てる。
(金丸は謀反でないことを知っていた?)

(糸満市には大川安司の喜屋武城があった。喜屋武城の大川安司の子、大城は護佐丸を討ち、謀反を起こして首里城を攻めた勝連城主の阿摩和利を討ち、その功により沖縄市越来地区を与えられ大城(越来)賢雄を名乗り、知花城主になった。首里城国王、尚泰久の娘で勝連城主の阿摩和利の妻であった絶世の美女、百度(十とも書く)踏楊(ももとふみあがり)を妻に迎えた。迎えたというより、百度踏楊の夫、勝連城主、阿摩和利を討ち、奪い取ったかのように駆け落ちしたのも同然のこと。)
神学者渡久地十美子氏によると百度踏楊が本当に愛していたのは阿摩和利だったというがその真意はわからない。
また、百度踏楊(ももとふみあがり)とは神(女)官制度の最高の地位という意味合いがあったと言い、最近になって移築のため、墓を掘り起こした時それを表す大きい金の神器が出てきたという。


後に首里王第一朝尚泰王軍に攻められて包囲された時、勝連城主の阿摩和利とは大城を部下(味方)だと思い込み、中に引きいれ、油断しているうちに背後から襲われた。鬼大城と言われたのもこのころから。もともと阿摩和利の謀反を首里城に知らせたのは大城と国王の娘である阿摩和利の妻、百度踏楊の二人。(以前、付き人の大城は百度踏楊を背負って阿摩和利謀反の密告のため、首里城に逃げ込む)のその後、クーデターで王は金丸に変わり、策略家、大城の栄華と勢いを恐れた首里王朝、第二尚氏尚円王により攻められ、最期、大城は、知花城中腹の崖の穴に逃げ込み、火攻めにされた。百度踏楊(ももとふみあがり)も運命に翻弄され一族も滅びその後、失意のまま若くしてこの世を去ったという。
琉球国の歴史を紐解くと興味深い。

削除: ※第一尚氏尚泰王の娘百度踏楊は阿摩和利の妻。第一尚氏尚泰久王の妻は護佐丸の娘。当時、首里王朝第一尚氏尚泰久王の最高位の家臣は百姓から出世した金丸。尚泰王の子供の王、尚徳王時代になった時、金丸はその王の家族を殺害し2000人の兵を喜界島に派遣し疲弊させ、ろくな報酬も払わずして尚徳王に家臣、民衆の反感を買わせ、尚徳王をクンチャサという女性で久高島に足止めにし、首里城では尚徳王の家族を殺し、王の地位を乗っ取った。厄介な護佐丸と阿摩和利はそれ以前の乱で滅んでしまっていたのである。謀反のからくりの全てを金丸は知っていた?