2018年11月3日(土)【静御前・鈴ケ神社】で検索していただければ静御前伝説の概要と背景が書かれているので是非、御一読を。

朝の散歩。民家もまばらで若者は都会に去り、過疎化が著しいとのこと。

静峰苑の温泉。

体が温まり朝までぐっすり。

現地で作業中の地元の可愛いおばあちゃんに聞いたら、「別当なら橋の下の向こうで砂金採りしてるよ。名前も橋本だよ」とのこと。

伝説では静御前は金堀吉次と箱石神社の山名家の3人の頑健な息子の(山伏)案内でこの地にたどり着いたという。

箱石神社(鈴ケ神社から私の足で歩いて10分の箱石駅前)に源義経が平泉の難を逃れて長期滞在していたとのこと。

鈴ケ神社入口を聞くと「後で俺も行く。せっかく来たのだから神社の中を開いてあげるとのこと。別当さんは砂金取りではなくイワナの産卵床を整備していたとのこと。(どうやら鈴ケ神社の土地の所有権問題が背景
にあるみたいです)

鈴ケ神社入口

鈴ケ神社の入口は宮古市へ続く線路の手前。

 「鈴ケ神社静御前」検索で出てきます。

静御前は、大迫、遠野、赤坂山、川井経由でこの地に来たという。静御前は、頼朝の追手から難をから逃れるためため亡くなったとしてもらった。各地に墓があるのはそのため?

鈴ケ神社の鳥居と静御前の供養塔。どうやら最近の建立?

静御前は以前、義経から金銀財宝をもらい頑健な男に守らせて京に送られる途中に、男達に金銀のみを奪われてさまよっているところを兄頼朝に捕まった経緯がある。
「女旅の怖さ」は静御前が身をもって体験し骨身にしみているはず。

と思うのですがしかし、静御前の男の子は安達常清が義経の子を由比ガ浜で流したが(史実はここまで)潮の流れの下で傑物、北条政子のご慈悲のある計らいで安達常清の家来に命じて「あうんの呼吸」で海から助けられた。

政子の命により、子は平泉の藤原家に届けられた。藤原家の跡取りは頼りがいがない。宮古の田鎖、佐々木高綱なら大丈夫として紹介された。鈴久名から車で15分位の宮古市田鎖地区の平治の乱で失脚した家来近江源氏の末裔、佐々木四郎高綱の養子として大事に育てられていた。佐々木四郎高綱は今や奥州藤原家の忠臣でもあった。

静御前が政子からたくさんの金銀を賜り、子供の居場所を政子から密からに告げられ、静御前は子供に会いたさの一心で平泉へ。金売吉次と箱石神社山名家の兄弟、3人の山伏の案内でここ鈴久名の地にたどりついた。この地と義経のいた箱石神社までは、私の足で10分ほど。
こうなると鈴ケ伝説の信憑性がにわかに増してくるが。静御前の墓が各地に残るが、静御前は頼朝の追手が来ないように死んだことにお願いしたという。鈴久名でも亡くなったというのも証拠もなく疑わしい。

(※青森県南部地区に約750~800年前に戦乱から逃れて兄弟で武士を捨て、名声を捨て密かに袴を脱ぎ、土着して農民になったという地域が。現実にある。兄弟とは義経と弁慶の本家と別家のことがかも。身分を隠し、秘密裏に何という戦いだったのか、その出自さえ子供たちに伝えなかったという。(源平の合戦しかない)本家には若い女性が伴っていたらしい。兄弟と隣家には平泉から伴ったと思われる藤原姓の家があり存続している。本家の開かずの蔵には今でも義経が着用したと思われる鎧兜が眠っているという。分家にはなぎなたと弓矢が残ったという。
この地から峠を越えて約一里半、その後に奥州平泉攻めで頼朝から糠の部の地の恩賞を与えられた南部氏の始祖、聖寿寺館が建立されている。南部氏には当然、義経さがしの密命もあったと思われるが、本当の兄弟と思ったのか、南部氏は、少しも疑わなかったという。この家は南部氏に重用されたされたという。人知れず農民にになったということは考えられないのか。伝説だけが本当の真実だとは思いません。あくまでも推測にすぎませんが)

静御前も義経も自分の子、佐々木四郎高綱の養子、佐々木四郎義高に面会している。静御前は、他人の子として育てられ、自分になつかない我が子に涙し、嘆きながらも佐々木四郎高綱に可愛がられ、なついている様子をみて安堵したという。

宮古市田鎖地区までは歩いて2時間超。

なにはともあれ、急峻な坂がある鈴ケ神社へゴー。

関連して(2話 萩野台の合戦 ~十三湊の覇権をかけて~、で検索)でなぜ、炭焼き藤太公(その子、金売吉次)がなぜ、平泉奥州藤原家につながっていたかその背景を解説。