切支丹教徒が隠れる場として恰好の居場所であった。南部重左エ門等の奉行所の置かれていたころは、人情に厚く見て見ぬふり。島原の乱以後、幕府の厳しい弾圧により尾去沢鉱山に難を逃れて身を隠す教徒が多くいたという。

ところが奉行所の経営からやがて南部藩盛岡の豪商の経営になると何年も働かせておきながら、さて長崎等の故郷に帰ろうと賃金の支払いを求める段になると儲け中心主義の鉱山経営の南部藩盛岡の豪商は隠れ切支丹教徒である旨を幕府に密告。多くのキリシタン教徒が次々と処刑され、命を落としていったという。