朝の散歩。民家もまばらで若者は都会に去り、過疎化が著しいとのこと。

静峰苑の温泉。古びた奥山の温泉。
東京都市大学のドローンサークルの皆さんも宿泊、料金は東京の東横インクラス。夕食は田舎的一汁一菜にやせ細ったサンマ焼き。美味しかったです。いかに普段、贅沢かということが判りました。

体が温まり朝までぐっすり。

現地で農作業中の地元の可愛いおばあちゃんに聞いたら、「別当なら橋の下の向こうで砂金採りしてるよ。名前も橋本だよ」とのこと。

伝説では静御前は金堀吉次と箱石神社山名家(ここから歩いて15分)の3人の頑健な息子(山伏)の案内でこの地にたどり着いたという。

箱石神社(鈴ケ神社から私の足で歩いて15分の箱石駅前)に源義経が平泉の難を逃れて長期滞在していたとのこと。(源義経の北方コース)

鈴ケ神社入口を聞くと「後で俺も行く。せっかく来たのだから神社の中を開いてあげる」とのこと。

鈴ケ神社入口  静御前に男の子が生まれると源頼朝の家来、安達常清が義経の子を由比ガ浜で流したが(史実はここまで。当然亡くなったとされる)潮の流れの下で傑物、北条政子のご慈悲のある計らいで安達常清の家来に命じて「あうんの呼吸」で海から救い上げ、助けた。

もともと義経の名声が世間と家来から高く評価さているので自分の立場(座)が危うしと視て頼朝の敵に見做(みな)されていたものであってその心配さえなければ頼朝からしても御前の子は実の甥っ子に間違いない。

しかも義経は再起不能の逃亡の身。その辺を妻北条政子が察したのかもしれない。為政者としての夫頼朝より北条政子の方が思慮深く人情味があって面白い。

源頼朝の妻北条政子の命により、子は平泉の藤原家に届けられた。藤原家の当主は自分の跡取りは頼りがいがない。家来の宮古の田鎖、佐々木四郎高綱の一族なら大丈夫として紹介された。鈴久名から車で20分位の宮古市田鎖地区の佐々木四郎高綱の養子、佐々木四郎義高として大事に育てられていた。佐々木四郎高綱は今や源頼朝の忠臣でもあったが頼朝、義経とも従兄弟の間柄でもあった。。(「女旅の怖さ」は静御前が身をもって体験し骨身にしみているはず。

鈴ケ神社の鳥居と静御前の供養塔。

静御前が政子からたくさんの金銀を賜り、子供の居場所静御前を政子から密からに告げられ、静御前は子供に会いたさの一心で鈴久名へ。

金売吉次と箱石神社山名家の兄弟、3人の山伏の案内でここ鈴久名の地にたどりついた。この地と義経のいた箱石神社までは、私の足で15分ほど。(静御前早池峰絶唱・横道幸吉著・参照)

こうなると鈴ケ伝説の信憑性がにわかに増してくるが。静御前の墓が各地に残るが、静御前は頼朝の追手が来ないように死んだことにお願いしたという。鈴久名でも亡くなったというのも証拠もなく疑わしい。(伝承によると
で地元の赤坂山で火葬し(胎児がいたという)郷里に送ったとか? 義経は箱石神社に滞在)

 

静御前は、大迫、遠野、赤坂山、川井経由でこの地に来たという。静御前は、頼朝の追手から難をから逃れるためため亡くなったこととしてもらった。各地に墓があるのはそのため?