糸満市には大川安司の喜屋武城があった。喜屋武城の大川安司の子、大城は護佐丸を討ち、謀反を起こして首里城を攻めた勝連城主の阿摩和を討ち、その功により沖縄市越来地区を与えられ越来賢雄を名乗り、知花城主になった。首里城国王、尚泰久の娘で勝連城主の阿摩和利の妻であった絶世の美女、百度踏楊(ももとふみあがり)を妻に迎えた。迎えたというより、百度踏楊の夫、勝連城主、阿摩和利を討ち、駆け落ちしたも同然のこと。
後に首里王第一朝尚泰王軍に攻められて包囲された時、勝連城主の阿摩和利とは大城を部下(味方)だと思い込んでた中に引きいれ、油断しているうちに背後から襲われた。鬼大城と言われたのもこのころから。もともと阿摩和利の謀反を首里城に知らせたのは大城と国王の娘である阿摩和利の妻、百度踏楊の二人。(以前、付き人の大城は百度踏楊を背負って阿摩和利謀反の密告のため、首里城に逃げ込む)のその後、クーデターで王は変わり、大城の栄華を恐れた首里王朝、第二尚氏尚円王により攻められ、最期は、穴に逃げ込み、火攻めにされた。琉球国の歴史を紐解くと実に面白い。
※第一尚氏尚泰王の娘百度踏楊は阿摩和利の妻。第一尚氏尚泰王の妻は護佐丸の娘。当時、首里王朝第一尚氏尚泰王の最高位の家臣は百姓から出世した金丸。尚泰王の子供の時代になった時、金丸はその王の家族を殺害し王の地位を乗っ取ったがその時、恐るべき相手は護佐丸と阿摩和利。私は本気で首里王第一朝尚泰王に謀反を抱いたのではなく後のクーデターを見込んで金丸の陰謀と策略でなかったかと思う?金丸は王位を乗っ取り、四百年以上続いた第二尚氏王朝の始祖、尚円王を名乗る。
首里王第一王朝尚泰王とその娘百度踏楊
首里王朝、第二尚氏尚円王にとって具志川城は邪魔なだけ。浦添市に城を構える父の安司に命じて攻撃させるが父は逆に取り押さえられる。最期は首里軍に攻められて落城。
(具志川城と喜屋武城は全く別個で場所も歴史も違う。喜屋武城祉は糸満市喜屋武地区でも山側の丘陵にある。唯一、喜屋武地区にあるということのみ)