鈴ケ神社の入口は宮古市へ続く線路の手前。ここを真っすぐ行くと箱石駅その前の山に箱石神社。毘沙門天像がまつられているそうです。今では別当代わりのおばあちゃんがたった一人で住んでいる。

静御前も自分の子である佐々木四郎高綱の養子、佐々木四郎義高に面会している。
静御前は、佐々木四郎高綱の養子として育てられ、自分になつかない我が子に涙したという。
嘆きながらも佐々木四郎高綱の猶子である育ての親に可愛がられ、逆になついている様子をみて安堵したというのです。

宮古市田鎖地区までは車で20分で。私も田鎖に行きました。宮古市田鎖地区は田鎖城のあったところ。佐々木高綱といえば母を通じて源頼朝、義経と従兄弟(いとこ)同士。

宇治川の先陣で名高い勇将。その時の総大将が源義経、歌舞伎にも登場する人気武将。佐々木高綱がいくら一時、失脚したとはいえ、田鎖に住む、人物ではないと思われのです。

おそらくは佐々木高綱の源氏同門の家に高綱の養子として養育を託し宮古の茂市地区で育てたものと思われます。

茂市で育った義経、静御前の子は成人すると佐々木高綱の推挙で朝廷の命を受け、源氏系の閉伊氏とともに田鎖城を築いたといわれております。佐々木四郎義高を名乗り、善政をしいたといわれております。

後に子孫が茂市氏を名乗ったところからどうやら閉伊氏に宮古市茂市で育てられ茂市の豪族となり、田鎖城主、閉伊氏の、家老職的存在になったと思われる。田鎖城主、閉伊氏もまた佐々木高綱の猶子「なほ子のごとし」となっていたものであります。

 
「蜂谷温子氏著岩手の源氏史」参照。

※グーグル等で「青森の歴史街道を探訪する・南部編コラム5話静御前その後」を是非ご検索いただければ幸いです。

義経、静御前の子佐々木四郎義高のことが詳しく書かれてあります。

長年続いた宮古市の閉伊氏田鎖城と千徳氏の千徳城は豊臣秀吉の諸城破却命令に従い田鎖城主閉伊氏と千徳氏が秀吉の命による朝鮮出兵で城を留守の間に南部氏により破壊されてしまった。田鎖城系佐々木氏系は、後には南部氏に組みし、家臣になっていく。

鈴ケ神社。

しかし、黒石浅瀬石千徳氏は津軽為信と同盟し南部氏を裏切ったため恨みに思っていたため、浅瀬石千徳氏の本家、宮古市の千徳城主一戸千徳氏も文禄の役で南部城主信直氏に滅ぼされて行方不明になります。したがって南部氏家臣の名前に一戸千徳氏は登場しません。南部信直公の父親が石川(南部高信)氏が津軽平定のため津軽石川城主になった時に千徳政氏に浅瀬石地区を与えられているのに為信方に寝返ったことに対し恨みをかったことによる。

南部、名久井東氏が3000人の兵で浅瀬石城を攻めた時、、千徳氏が勝利したが津軽為信は援軍の兵を送らなかったという。逆に同年、津軽為信は千徳政氏の息子田舎舘城主千徳政武を600人の兵で攻め滅ぼしている。対等の立場での同盟、千徳氏に、南部氏同様、不信感を抱いていたという。やがて、為信は千徳政氏と子を堀越城に呼び出し謀殺している。没年月日は不詳。遺骨は宮古市の菩提寺に葬られた。

千徳氏は「裏切り者」として主家南部信直からも津軽為信からも信用されなかった」のかもしれません。宮古市に津軽石川が流れており千徳氏が津軽から大量の小石を運びサケの産卵床にしたところ、その後たくさんのサケが遡上してきたもので津軽千徳氏にちなんで津軽石川と呼ぶようになったという。いるそうで南部領の宮古市で津軽石と呼ばれる起源もその辺なのかな?

黒石千徳城主の千徳氏はこの宮古市の千徳城の出身という関係で黒石市と宮古市はプラス思考で友好姉妹都市になっっており両市民の交流が図られているそうです。
しかし主家、南部家の裏切り者として、先を見越せない悲運の武将としてのイメージを拭い去ることができない。

話は変わりますが、現に古文書等も現存する宮古市鈴久名の静御前伝説は信ぴょう性が非常に高いと思えてなりません。したがって義経、静御前の子、佐々木四郎義高氏の子孫の方は、宮古市におられる可能性も?