朝の散歩。民家もまばらで若者は都会に去り、過疎化が著しいとのこと。

静峰苑の温泉。古びた奥山の温泉。
東京都市大学のドローンサークルの皆さんも宿泊。この頃はコロナは発生していない時代。料金は東京の東横インクラス。夕食は田舎的一汁一菜にやせ細ったサンマ焼き。いかに普段、贅沢かということが判りました。

体の芯が温まり朝までぐっすり。

現地で農作業中の地元の可愛いおばあちゃんに聞いたら、「別当なら橋の下の向こうで砂金採りしてるよ。名前も橋本だよ」とのこと。

伝説では静御前は金堀吉次と箱石神社山名家の3人の頑健な息子(山伏)の案内でこの地にたどり着いたという。

箱石神社(鈴ケ神社から私の足で歩いて15分の箱石駅前)に源義経が平泉の難を逃れて長期滞在していたとのこと。

鈴ケ神社への入口を聞くと「後で俺も行く。せっかく来たのだから神社の中を開けますよ」とのこと。

鈴ケ神社入口  静御前に男の子が生まれると源頼朝の家来、安達常清が義経の子を神奈川県由比ガ浜で殺害のため、流したが「東鑑」ではここで亡くなったとされる。

北条政子も赤子の助命を源頼朝に願ったが男子であったため、頼朝はこれを許さず。

由比ガ浜で潮の流れの下で安達常清の家来安達新三郎が「あうんの呼吸」で海から救い上げて助けた。そして安達新三郎が頼朝の命に背いて頼朝のいとこで幕府の有力武将佐々木高綱にひき渡した。

※かの有名な日本の歴史小説作家、故吉川英治氏は殺害されたとする由比ヶ浜の現場には、佐々木四郎高綱の主な家中の者が多く立ち会っており、確かだとする証拠はないと断りながらも救われた可能性が高いとした。(今野誠一氏著・源義経の北方コースによる)

鈴久名から車で20分位の宮古市茂市地区で佐々木高綱の養子、佐々木四郎義高として大事に育てられた。。

鈴ケ神社の鳥居と静御前の供養塔。

静御前が政子からたくさんの金銀を賜り、子供の居場所静御前を政子から密からに告げられ、静御前は子供に会いたさの一心で鈴久名へ。

金売吉次と箱石神社山名家の兄弟、3人の山伏の案内でここ鈴久名の地にたどりついた。(静御前早池峰絶唱・横道幸吉氏著・参照)

こうなると鈴ケ伝説の信憑性がにわかに増してくるが。静御前の墓が各地に残るが、静御前は頼朝の追手が来ないように死んだことにしてとお願いしたという。
伝承によると地元の赤坂山で火葬し(胎児がいたという)郷里に送ったとか? 

 

静御前は、大迫、遠野、赤坂山、川井経由でこの地に来たという。静御前は、頼朝の追手から難をから逃れるため亡くなったとした。各地に墓があるのはそのため?

(続く)