前頭雷太号(2才)VS前頭琥珀どらごん(2才) 試合終了後、退場の際、雷太号が最後、後ろ足で私に砂を蹴り上げて行きました。
(被害はなかったのですが失笑をかわなくて幸いでした)

 ※沖縄、徳之島、隠岐の西日本の闘牛大会は、相手の闘牛が背中を向けて悲鳴を上げ、逃げて決着がつくまで時間無制限で戦わせます。

平庭高原の大会では一方が有利になったところで勢子が止めに入り、牛を保護します。(闘牛のルールはその地方で異なります。)

久慈(平庭の闘牛大会)は牛に自信をつけさせ、強い闘牛を育てることを主な目的にしている。(人間の相撲の世界でも横綱の負け癖は天敵というより致命的?)

 原則引き分けとするのは闘牛の将来性を考慮し、負け癖がつかないように強い牛を育てることと、ケガ(負傷)を防ぐことにあります。

久慈牛(平庭の南部牛)は闘牛の生産地であり、新潟、沖縄、鹿児島、西日本に高値で買い取られ、その多くは横綱・大関級の名牛になっているそうです。(2才以上の牛が中心)


横綱若獅子(9才920kg)VS横綱豆之介(9才1020kg)
 したちなみに、本日の最高殊勲賞は白鵬と対戦した柿木チョッパーでした。

※久慈市といえば津軽為信の時代に、久慈城のあったところ。

津軽為信も鯵ヶ沢種里の大浦光信も久慈城の出身。津軽為信は津軽の大浦氏に婿入りするまでは、南部で久慈為信と呼ばれていた。

久慈為信は久慈城主の後妻の子。前妻の長男と折り合いが悪く、先祖が同じ久慈城の何代か前の出自である津軽(鯵ヶ沢種里から弘前市大浦へ)の大浦家に大浦為信として婿養子に入った。鯵ヶ沢種里の光信公の館は市浦の福島城を南部氏(南部晴政)に追われた安倍氏が侵入するのを防ぐために南部氏の命により久慈から鯵ヶ沢種里に配置された。
鯵ヶ沢種里の光信公の館は津軽発祥の地として知られるゆえんである。

帰りに久慈城祉に寄ってみました。