金丸は琉球王朝第7代目の尚徳王をクーデターで滅ぼし、410年も続いた第2尚氏の始祖となった。

 働き者の金丸の田はいつも豊作だった。ある夏、日照り続きで大飢饉が島を襲った。下の田は、水が干上がったのに金丸の田は上にあるにもかかわらず、いつも水を満々とたたえていた。下の田の主たちは、金丸が下の田から水を盗んでいるに違いないと噂し、ある晩、金丸の田の畔(あぜ)を深く切って下の田に水が流れるようにしておいた。こうしておけば下の田は水でうるおい金丸の田は水がなくなってしまう。次の朝、下の田の主たちは楽しみにして田を見回りにいくと、金丸の田はカラカラどころか、前の日と変わりなく水を満々とたたえていた。水がたくさんあるはずの下の田は逆に深くヒビが入ってカラカラの状態。(これでは下の田の主たちが水泥棒?)「さては水が逆さに流れたか、それとも金丸が夜中に水をくみあげているに違いない」と金丸の田にサカタと名がついた。逆田(サータ)伝説はここに由来している。


 私も、現地に行って逆田(サータ)を確かめましたが今現在も水は、冬でも枯れることはない。若き金丸は、島の娘、女に大人気。青年達は金丸をうらやみ、盗み水の罪を着せ、殺害しようとした。
要するに金丸は人にないものを持っていたが、人の女に手を出したことが致命的。
金丸の若い時代、地元では愛称(ニックネーム)を北(ニシ)の松金と呼んでいた。


島の乙女の心を謳っている。北の松金とは金丸のこと。村の乙女たちは金丸のことを想うだけでも恋心が熱く燃え上がるという意味なんだそうです。有名な石碑。

当時の歴史的伝承ではあからさまな表現は避けたいが金丸を慕う遊女的存在の女性(勢理客)もいたとか?また、一説には今でもそうですが、沖縄の男子は働きたがらない傾向にあるという風聞もある中、金丸は働き者であったという。時代考証からすると今でも子作りが盛んな伊是名村。人の女性に手を出したのが致命的となった。

この銅像のように金丸にとって希望に満ちた船出でなかったことは、前述のとおり。どうせだったら命からがら逃げた金丸の銅像の方が現実的でずっとふさわしい。虎口を脱出した金丸は、国王になっても伊是名はとても嫌だったらしく二度とこの地を踏むことはなかった。


みほそ所

この大石の下に金丸のへその緒がある

琉球王朝の最高位の家臣として登りつめ、4人の国王に仕え最強の7代続いた第1尚氏の国王の座を策略と陰謀(クーデター)により乗っ取り、第2尚氏の始祖となり、徳川幕府より長い400年間の琉球王朝を築いたのは凄い偉業。今では、金丸改め尚円王は伊是名の島の誇りと観光の目玉になっている。
 
この弟はやがて金丸国王の座を承継しており、二人で行動したことは事実。
この王弟、尚宣威が国王の座に就いたものの半年で金丸国王の王妃おぎやかの策略により、おぎやかが掌握していた女官の指名により失意のまま退位。13歳の幼少、第三代尚真王が誕生した。第三代尚真王の母として権力を牛耳ることになり、金丸国王の前からの元々の妻と子を人里離れたところに呼び出し、家臣に殺させたという伝承?これについては前の第一尚氏国王の尚徳王の残党の仕業と位置づけたという。神の国として各地の神女達を王府の組織下に作り替え、長女を神事を司る国の最高位の神職にし、政祭一致の基礎を樹立した。(おぎやかが息子の尚真王に妹を最高位に指名することを依頼)
第三代尚真王の母后として絶大な権力を振るうほどだったというのです。

金丸国王(62才)が亡くなったのが女盛りの30才。気に入った家臣を連れ込むとの噂が絶えなかった(子供ができたとも)という。やがてそのことを知った尚真王はこのままでは第二尚氏王朝は崩壊の憂れき目にあうとし母おぎやかを王陵に入れず人里離れた崖(浦添市前田)もしくは金丸の伊是名島に葬ったと言われている。「尚円王妃、宇喜也嘉(おぎやか)の謎・渡久地十美子著書による」
ところが「琉球王国三大妃」を書いた金城昌水によると金丸尚円の弟が元々の妻の娘に手を出して子供ができた。そしてその証拠隠滅のため殺害したとする説は説得力が乏しい気がします。なぜなら持論ですが金丸の実弟は真面目な性格ではないかと思えてなりません。いずれにせよ金丸の元々の妻と子はどなたかによって何らかの事情により殺害されたのは事実だみたいです。
金城昌水の書物に「心が純真で日々の子育てをし、夫(金丸尚円王)の健康を気づかい、神人のとりまとめをし、心が広くて優しい妃」とある。
金城昌水によるとおぎやかは渡久地十美子のいうようなそんな悪女ではないような印象。

繰り返すが「尚円王妃、宇喜也嘉(おぎやかの謎・渡久地十美子著書」のいうようにこの辺は本当に謎だらけ?

もしかしておぎやかの子は小さく、後見役として王の実権を握った時から変心したのかも?