源義経と静午前の子は、生まれたら「女の子なら命を助ける」としたが、
男の子だったので将来を憂いて頼朝により由比ガ浜で殺害のため流されたが北条政子は頼朝に助命を嘆願したが聞き入れられず、政子の命(推測ですが義経の子が助けられるように)により身内的存在の家臣、安達新三郎(頼朝の命に背いた?)及び佐々木四郎高綱(宇治川の戦い先陣争いで有名・母を通じて義経とは従兄弟)とその家来衆に命じて由比ガ浜に張り付けたがところがどっこい、佐々木四郎高綱が男の子を海に捨てた(東鑑には殺されたと明記されているが)ことにして義経の子を待ち受けて救い上げ自らが匿(かこ)って秘密裡に岩手県宮古市田鎖、茂市地区で養育し、成人して佐々木四郎義高を名乗り、のちに宮古市田鎖城主となった。
最近になって岩手の新聞でこの事実が大々的に報道された。佐々木四郎高綱は元々源氏でその母は義経の叔母にあたるといわれている。この佐々木四郎高綱の子孫で有名人はあの「乃木大将」
岩手の有名な郷土史家によってこの事実が紹介され、岩手の新聞紙上で大々的に報道されるに至った。あの有名な作家吉川英治でさえ由比ガ浜に張り付いた武将の名前で「根拠はないが義経の男の子は助けられた」と太鼓判を押したという。
北条政子は傑物ではあったものの人情味に厚く個人的には歴史的には素晴らしい人物と思う?ただ、この「東鑑」は将軍、源頼家、実朝に対しては評価が厳しく執権北条氏には甘かったとされている。
源義経からの系譜「家系図」を拝見。(続く)